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2015
Alice in Wonderland
(三重/広島/岐阜)
ヨナ
(真庭)
シンデレラ
(土浦)
オイディプス
(どらま館開館記念公演)

2014
シンデレラ
(Bellevilleこけら落とし公演)
かもめ(台湾)
(關渡藝術節参加)


2013
ヨナ(M-PAD2013)
三人姉妹(BeSeTo演劇祭参加)

2012
班女/邯鄲(愛知/三重)
山月記(M-PAD2012)
かもめ(金沢)
班女/邯鄲(広島)
かもめ(韓国)
(BeSeTo演劇祭招待)

2011
よだかの星(M-PAD2011)
かもめ(広島)
かもめ(東京)
かもめ(真庭)
かもめ(フランス)
葵上 / 班女(ドイツ)

2010
かもめ(三重)
(Mゲキ!!!!セレクション)
水の中のプール
班女(鳥の演劇祭)
雨月物語(広島・岡山)
かもめ(千種セレクション)

2009
鉄輪(アジア舞台芸術祭)
班女 / 葵上(ドイツ)
班女 / 葵上(北海道)
オツベルと象(岡山)
ミロワー木管五重奏団 in Japan
『エグモント』
マクベス(東京)

2008
新装 四谷怪談(東京)
新装 四谷怪談
(岡山・津山・京都・三重・名古屋)
シリーズ FABRICA#1「近景」
(SENTIVAL!)
新装 四谷怪談(なぱふぇす2008)

2007
かもめ(BeSeTo演劇祭参加)
班女 / 葵上 岡山ツアー公演
班女 / 葵上 韓国ツアー公演
シリーズ「悲劇の終焉」U
紙風船 / 驟雨
オツベルと象(横浜)

2006
[外部演出] 部屋
班女 / 葵上
冒した者
冒した者
班女(リーディング公演)
るつぼ(Shizuoka春の芸術祭参加)
シリーズ「悲劇の終焉」T

2005
トロイアの女
トロイアの女
(Shizuoka春の芸術祭参加)

2004
玄朴と長英(BeSeTo演劇祭参加)
玄朴と長英
贋作ハムレット

2003
B −X版−
しあわせな日々
第二期WS修了試演
B-ブレヒト教育劇集-

2002
第一期WS修了試演
マッチ売りの少女

2000
蕭颯的な、余りに蕭颯的な
月に叢雲花に風

1999
the advance party

かもめ
ワールドツアー2010-2011 Mゲキ!!!!!セレクション 日本公演


≫レビュー 高倉麻耶 / ワンダーランド

≫推薦寄稿文 亀田恵子(Arts&Theatre Literacy)
≫推薦寄稿文 ジャコウネズミのパパ(双身機関 主宰・演出家)
≫推薦寄稿文 平山富康(財団法人 名古屋市文化振興事業団 名古屋市千種文化小劇場 館長)
≫推薦寄稿文 カトリヒデトシ(エム・マッティーナ 主宰・舞台芸術批評)

≫プレトーク・アフタートーク 動画はこちら
 10日ゲスト:中屋敷法仁(柿食う客)、柴幸男(ままごと)
 11日ゲスト:ジャコウネズミのパパ(双身機関)、志賀亮史(百景社)、矢野靖人(shelf)
 12日ゲスト:カトリヒデトシ(演劇舞台批評)、徳永京子(演劇ジャーナリスト)
田中綾乃(三重大学准教授)

東京、名古屋で好評を博した「かもめ」の再演。
欧州公演に先駆けて、国内では三重のみの特別公演です。

日時
12月11日(土) 19:00
12月12日(日) 14:00
場所

原作
A・チェーホフ
構成・演出
鳴海康平
出演
佐直由佳子 / 木母千尋 / 山田裕子
小菅紘史 / 菊原真結
 
額田麻椰 / 須田真魚 / 白鳥光治
照明
島田雄峰 (Lighting Staff Ten-Holes)
音響
和田匡史
衣裳
川口知美 (COSTUME80+)


【舞台写真】


【公演チラシ】
<クリックすると拡大されます>
チラシ表 チラシ裏


【公演CM】


 メディア掲載情報
11月13日(土)中日新聞、11月18日(木)伊勢新聞に掲載されました
<クリックで拡大します>
11月13日(土)中日新聞
中日新聞
11月18日(木)伊勢新聞
伊勢新聞
ナゴヤ劇場ジャーナル「4月号」
ナゴヤ劇場ジャーナル
(「かもめ」名古屋公演)

 プレトーク・アフタートーク
日時
 
トークゲスト
10日(金)
プレトーク
動画を見る
Mゲキ!!!!!セレクション参加劇団と語る!!
中屋敷法仁(柿喰う客/主宰・劇作家・演出家)
柴幸男(ままごと/主宰・劇作家・演出家)
11日(土)
アフタートーク
動画を見る
第七劇場とも関わりの深い2劇団と語る!!
ジャコウネズミのパパ(双身機関/主宰・演出家)
矢野靖人(shelf/主宰・演出家)
12日(日)
アフタートーク
動画を見る
劇評家たちと「かもめ」を語る!!
徳永京子(演劇ジャーナリスト)
カトリヒデトシ(舞台芸術批評)
田中綾乃(三重大学人文学部准教授[哲学・演劇]
・ワンダーランド劇評)

 『かもめ』への推薦寄稿文
 第七劇場の『かもめ』を見終わったあと、どうしようもなく胸高鳴る自分がいた。新しい表現の領域を見つけてしまったという心密かな喜びと、その現場に居合わせることの出来た幸運に震えた。彼らの『かもめ』は演劇作品に違いなかったが、別の何かだとも感じた。「ライブ・インスタレーション」という言葉がピタリと腹に落ちた。「インスタレーション」とは、主に現代美術の領域で用いられる言葉で、作家の意図によって空間を構成・変化させながら場所や空間全体を作品として観客に体験させる方法だ。元々パフォーミング・アーツの演出方法を巡る試行錯誤の中から独立した経緯があるというから、演劇との親和性は高いのだろう。しかし、すべての演劇作品が「インスタレーション」を感じさえるかといえばそうではない。
 舞台を四方から客席が取り囲む独自な構造を持つ千種文化小劇場・通称“ちくさ座”(名古屋市)。この舞台に置かれていたのは白い天板の長テーブルが1つに、黒いイスが数客。天井からは白いブランコが1つと、羽を広げた“かもめ”のオブジェが吊られており、床は八角形状に白いパネルが敷き詰められていた。役者たちの衣装もモノトーンやベージュといった大人っぽい配色でまとめられ、全体としてスタイリッシュな印象だ。舞台セットの影響なのか、作品中のセリフでは、チェーホフの『六号室』や『ともしび』といった他の作品の一部も引用され、人間の生々しい欲望や絶望を色濃く孕むセリフが続くが、不思議と重苦しさに傾くことがない。むしろチェーホフの描く狂気や人生における悲しいズレが、役者の身体と現実の時間を手に入れ、終末に向かって疾走する快感へと変容していく。役者たちの独自の強い身体性が、無機質な空間の中で描く軌跡は、従来の演劇の魅力だけでは説明が難しい絶妙なバランスを生み出しているのだ。
 第七劇場の『かもめ』は、演劇の枠だけで完結しなければ「インスタレーション」作品として押し黙っている存在でもない。戯曲に閉じ込められた時間を劇場という空間に新たにインストールし、生きた役者の身体によって再生する。それは観客との間に「今、この瞬間」を共有する「ライブ・インスタレーション」として新たな領域を創造する行為に他ならない。
 「インスタレーション」は、観客の体験(見たり、聞いたり、感じたり、考えたり)する方法をどう変化させるかが肝らしい。この作品は優れた演劇作品であると同時に「インスタレーションの肝」そのものではないかと思うのである。

亀田恵子(Arts&Theatre Literacy)


 第七劇場主宰の鳴海康平は仙人のような風貌をしている。初めて会ったときは、どんな大御所が現れたのかと思ったものだ。何しろ短く刈り込んだ頭髪と、たっぷりと蓄えられたあごひげは迫力満点。まさか私より年下だなんて思いも寄らなかった。その後も会うたびにひげは順調に伸びているようで、間もなく地面に届くのではと思わせる。やがて風貌のみならず、彼らの生活自体が仙人そのものであることが段々判ってきた。ドイツ、韓国、四国、広島、岡山、京都、三重と目まぐるしく国内外を駆け回り、公演やワークショップを繰り返す日々。おそらく年の2/3くらいは家に居ないのではないだろうか? 霞を食わずに生きていられるわけがないではないか。お相伴に与るわけではないが、彼らの演ずる三島由紀夫や鶴屋南北の世界を堪能するために、果てない行程のほんの一部ではあるが同行させてもらった。彼らの作品は日本の伝統に則った美しさと、確かな身体性に裏打ちされたエネルギーに満ちてとても心地よかった。霞を食えない凡人の私にこうした道楽は中々に散財ではあったが、至福の時間は金では買えないのだから仕方がないというものだ。
 さて今年に入り、鳴海君は実は仙人ではなくシヴァ神だったのだと私は思うようになった。ここ数年モダンダンサーとの共同作業を続け、またドイツのノイエタンツから影響を受けたと思しき彼は大胆に劇団の身体性を改変、あろうことかチェーホフの古典戯曲を精神病院で際限なく繰り返されるダンス饗宴の中に投げ入れてしまった。それが今年の2月に名古屋市千種文化小劇場で上演された『かもめ』の再演である。東京での初演の痕跡を探すのに本人が当惑するほど違う舞台となったのだ。長い時間かけて築き上げた様式をかなぐり捨てることは勇気が要るものだが、彼らはいとも易々と(傍目にはそう見える)、道なき道を選択したのである。そこには破壊と創造の静かな嵐が渦巻いていた。
 彼らは9月の鳥取『斑女』でも三島由紀夫の華麗な日本語にノイエタンツの接木を敢行した。さすがにこれはうまく融合したとは言えなかったが、破壊の熱はいよいよ沸点に達していたと思う。そこから益々大きな創造のエネルギーが産まれることは疑いようもない。
 三重県の皆さん、地理的には勿論、破壊と創造の順序から言っても奇跡のようなめぐり合わせの幸運に貴方たちは接しているのです。チケット代のみの散財でこの奇跡に立ち会えるのですから、逃したら後悔は一生ものですよ!来るべき12月11〜12日には、どうか万難を排して総合文化センターにお出かけ下さい。

ジャコウネズミのパパ(双身機関 主宰・演出家)


 遡って2010年2月、名古屋市の千種文化小劇場で企画実施した演劇事業『千種セレクション』(同劇場の特徴的な“円形舞台”を充分に活用できそうな演出家・団体を集めた演劇祭)で、第七劇場の『かもめ』は上演されました。企画の立ち上がった頃には、第七劇場は『新装 四谷怪談』の名古屋公演を既に果たしていて、その空間演出力が注目されていた事から企画の趣旨に最適でした。参加団体は4つ、持ち時間は各60分。それぞれ会話劇・現代劇の再構成・半私小説的創作劇とラインナップが決まる中、第七劇場のプレゼンは“チェーホフの『かもめ』を始めとする幾つかの作品”との事…たったの60分で。一体、どんな手法で時間と空間の制約に収めるつもりなのか。当惑をよそに第七劇場が舞台に作ったのは、さしずめ「白い画布」でした。舞台は一面、真っ白なリノリウムが敷かれ、無骨な机や椅子との対照が、銅版画のように鋭利な空間を立ち上げていました。舞台と同じく白い衣装をまとった俳優(彼女らは『六号室』の患者たち)は静謐な余白のようです。が、幕が開いて、彼女らが見せる不安な彷徨と激した叫びが「鋭利な銅版画」の印象をより強めていきます。この画布が変化を見せるのは、チェーホフの他作品の人物たちが続々と舞台に位置を占めていく時でした。彼らは暗い色の衣装をまとって、これまでの描線とは異なる雰囲気です。こうして、既にある版画の上から幾人もの画家が新たな絵画を描くように芝居は進みました。幾つもの物語の人物が、互いの世界を触れあわせていく現場。彼らが発する言葉と声、静と動が入り混じる身体の動きは、新たな画材でした。時に水墨画、木炭、無機質なフェルトペン。余白を塗り込めたと思えば余白にはねのけられる「常に固定されない描画」のようにスリリングな作劇が、観客の前でリアルタイムに展開されたのです。終演後のアンケートでは“視覚的に美しい贅沢な構成” “話を追いそこねても目が離せなかった” “世界がつくられていく感覚” “難しい様で実はわかりやすい”と、中には観劇の枠に留まらない感想も多々あり、第七劇場が『千種セレクション』で残したのは、限られた空間で無限に絵画を描く様な演劇の可能性だった…というのが当時の記憶です。名古屋市の小劇場で室内実験のように生まれたその作品が、再び三重県で展開され、これから皆さまはどのように記憶されるか。非常に楽しみです。

平山 富康(財団法人 名古屋市文化振興事業団 名古屋市千種文化小劇場 館長)


 「なぜ日本人がチェホフをやるのか?」と問うのは、かなりダサい。
今までの蓄積に付け加える、新しい文脈・意味を発見し提示するのだという優等生的な答えは間違っていると思っている。それでは、ヨーロッパ文化をきちんと学んだという模範解答になり、単なるレポートになってしまうだろう。
 古典を何度でも取り上げることは、芸術の目指す「絶対的有」への敬虔な奉仕である。「有りて在るもの」への畏怖の気持ちは洋の東西といったものは関係ない。芸術へひざまづき、頭をたれることは、芸術家の基本的な資質であるし、それこそが歴史や文化的差異を超えようとする意思の現れにつながっていく。現代から古典を読み直し、古典から現在を照らすことにこそ、古典に取り組む大きな意味がある。  また、孔子は論語で「子は怪力乱神を語らず」といった。これは軽々しくそれについて語ってはならないと理解するべきで、超常現象にインテリは関わらないということではない。芸術は人間を超えた存在、「不可知な存在」を認知することが第一歩であろうから。
 第七の演劇には、不可知が全体を包みこもうとする力。またそれに触れた人間の、根源的な「生」への畏怖がよく現れている。
 それらの二点で第七劇場は大切な存在だとおもっている。

 たとえば、今回の「かもめ」はチェホフの本質に迫ろうとする試みである。
 ダメな人間がダメなことしかしないで、どんどんダメになっていってしまうのがチェホフ世界の典型である。そこには没落していく帝政時代の裕福な階級を描き続けた、彼の本質が現れている。
 それはチェホフには、たれもが時代に「とり残されていく」、乗り遅れていく存在であるという認識があるからである。つまり、「いつも間に合わないこと」こそが人の本質なのだという考えである。
 取り残されていくことは悲しい。何も変わらなければ既得権を維持できるものを、時代の変化によって、何もかもが「今まで通り」ではいかなくなる。チェホフはそれを、「われわれは絶えず間に合わず、遅れていく存在なのだ」と確信にみちて描く。苦い認識である。  人間はいつでも誰でも、既にできあがった世界の中に生み落とされる。誰もがすべてのものが現前している中にやってくる。個々人は、養育や教育によって適応をうながされるだけである。人は限りない可塑性をもって生まれるが、時代や地域や環境によって、むしろ何にでも成り得たはずの可能性をどんどん削ぎ落とされていく。

 現在ではすたれてしまったが、日本には古代から連綿と続いた信仰に「御霊」というものがある。人は死んだ際に、現世に怨みを残して死ぬと、祟るものだという信仰である。「御霊」は、残った人たちに、天災を起こしたり、疫病を流行らせたりする。やがて人々は天災疫病が起こった時に、誰の「祟り」であろうと考えるようになる。それを畏れるために死んだものの魂が荒ぶらないように崇め拝めるようになっていく。人々に拝まれ、畏怖されるうちに、荒ぶった魂は落ち着いていき、「神」として今度は人々を護る存在へと変わっていく。だから「御霊」はおそろしいものであるだけではない。

 「荒ぶる魂」を、第七は「かもめ」の登場人物たちの「遅れ」「取り残されていく」姿の絶望の結果に見る。舞台はその絶望からの荒ぶりに共振し、増幅し、畏怖を現す。
チェホフの持っていた、人に対する「諦観」を大きな包容力で抱え込んこんだ上に、零落していくことへの激しい動揺を、魂の「荒ぶり」として表現する。それは現在の私たちでは到底もち得ない、激しい「生」の身悶えである。

 その方法として舞台に遠近法が援用される。
 奥行き作り出すことによって、「位相=層=レイヤー」が作りだされる。
後景の美しいオブジェは遥かに遠い「自然」の層で、あたかも人の世を見つめ続ける「永遠」や「普遍」を感じさせる。そして中景は「六号室」のドールンのいる老練の世界、経験に基づいて生きる老人の世界である。患者たちは遊戯する体を持ち、永遠の世界を希求する。その三層を背負って、最前景で「かもめ」の世界が現れる。かれらは都会と田舎、人と人の現世の距離によって引き裂かれていき、苦しみ世界を生きるものとして描かれるのだ。

 そう、日本人「にも」チェホフが描けるのではない。
 日本人「にしか」描けないチェホフがあるのである。

カトリヒデトシ(エム・マッティーナ 主宰 舞台芸術批評)

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