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第T部《評論》
 演劇私論

演劇私論
■ 序

 今昔問わず「演劇論」なるものは数多く存在し、それぞれに内容を異にしている。この「演劇論」が錯雑とする 状態にまた一つの「演劇論」を立ち上げるのは、少々余計なことかもしれない。何をして演劇論とするかは別として、 実地的な活字となっていないものを含めると、世の中には想像を絶する程に演劇論が存在する。 まるで人間の性格のようなものである。この中でこれから書くものは、 演劇に対する根幹的な私論であり、世の演劇論を総括するものでも、比較するものでもない。ましてや、これが唯一無二の 演劇論だと言うつもりは毫もない。懐疑や憤怒を源泉とする欲に動かされているのであって、積極的な向上心に支えられた 欲に駆られているでもないと言える。また、私を動かすものとして罪と矛盾がある。それは自然の中に生きる 人間としての罪と、答えることが困難な全くのカオスとしての矛盾である。

 演劇が「表現」として持つ側面が、単一であるとするのは余りにも矮小化しすぎるが、ある一つの側面として、 発信者と受信者がいる点で、ある種の伝達表現と言っていいだろう。私は数あるメディアと呼ばれる伝達表現の中で 演劇を選んだ。そして他にも多くの演劇人がいる。これは事実である。各々がそれぞれの理由で演劇を選んでいるのだろう。 その理由に良し悪しがあるはずもなく、あるべきではない。しかし伝達表現の前提には伝達されるべきものがあるのは当然である。 もしそれがないならば、人間は伝達表現をとる必要はない。もちろん、そのような行動をとっていない人間を外部から見た時、 受信側から見れば何かしらの情報が得られる場合があるが、これは伝達表現の規定枠の配置位置の問題であって、 ここでの論述に加えられる類ではない(これに関しては演劇私論別項に記載する)。 つまり理由はともかく、伝達表現をとっている以上は伝達されるべき何かがそこにあると考えられる。 また、日常のおいて人間は無意識のうちにより的確な伝達表現を取ろうとする。例えば、道を説明する時に地図を描いたり、 気持ちをより伝えるために電話よりも実際に会って話をしたり、場合によっては手紙を書いたりする。これは 今までの経験や知識から、数ある伝達表現の特性を理解し判断しているからである。以上を考えたとき、演劇を通して 伝えられる何かと、演劇の伝達表現としての特性に対する認識とは、何かしらの連関が個人レベルで存在すると考えられる。

 前々段に書いたが、私にとって「演劇を通して伝えられる何か」の根底にあるのは種々雑多な罪と怒りである。そして 「演劇の伝達表現としての特性」は判断されるべき方法の一つである以上、そこには他に対する次元の違いや限界が あるのは当然だと考えている。これらから、立場として、局面として私は相対的に消極的な場所にいるのは間違いない。 しかし、演劇に対する私の位置がそうなのであって、姿勢や態度がそうであるとは思わない。 私自身は演劇という表現に関して、あくまで位置を変えずに積極的な姿勢を取るべきだと考えている。 よって、この演劇私論は私の消極的な位置からみた演劇に対する積極性の、根幹的な意見であると見て一向に差し支えない。

 活字離れが顕著に見受けられる現代で、演劇人の中で自らの活字経験に満足していないものは少ないと思われる。 多少の活字に触れることで直ちに飽和してしまったり、ましてや全く活字を経験せずに映像メディアで飽和してしまっている ものすらいるのである。映像メディアで演劇的情報を得るのは悪いことではない。しかし、それによって純粋な演劇的経験を 得るのは困難であって、演劇的情報にしても取り扱う番組が指で数えられる程しかない以上、十分とは決して言うことは できず、明らかに不足、欠損していると言っていい。これは演劇人に限ったことではない。世間一般において、演劇は 極マイノリティにあることは誰も否定できない。そのような状態で演劇が作られ、それを見るために観客が劇場に 足を運ぶというのはどういう循環にあるのだろうか。演劇的情報・経験という点で、演劇人も観客も貧困であると 言わざるを得ないだろう。情報・経験という二点は視点と置き換えていい。この視点が少なくとも現代日本人の 生活上の価値観の中でひどく窮地に追いやられている。60年代、70年代を「生きた」人は別として、 それ以降に演劇が生活に一部でも存在する人は加速度的に減少傾向にある。あくまで私の感覚だが、 演劇人としてのプロフェッショナルな行動を遂行している人は少ない。これは古い考えだと切って捨てるべきではない。 現代演劇人は、特に若手にとっては、演劇人としての専門的意識を持たなければならない。 もしこれを不必要とするならば、演劇人にとっても観客にとっても、甚大なる時間と労力の無駄だと感じるだろう。 しかし、差しあたって現代には趣味の類の演劇が多く存在し(趣味の類であると当人たちも気づいておらず、認識する 力もない場合もままある)、それを許す土壌が作られてしまったのも事実であろう。このままでは10〜20年後、 日本の演劇は破綻し、古典芸能と呼ばれるものだけが「演劇」として生き残る結果を生むと思われる。 一度日本現代演劇は死んだほうがいいのかもしれないとも考える。しかし、その潮流に抵抗したいとも考える。 その抵抗の定義の部分がこの演劇私論である。

文責 鳴海康平

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